2005. 12. 1  さらばオーストリア
 
 昨夜の飲み会あとにシャワー浴びようと思ったが、なぜか?水しか出なかったので今朝入ろうとしたが、これまた水しか出ない。ボイラーが止まっているようだ。飛行機での長旅前にシャワーが浴びられないのは辛い。しょうがないので極力体を濡らす時間を短く、かつポイントをおさえて水のシャワーで簡単に体を洗った。う〜〜寒い! こちらの生活で問題点といえばこのシャワーだな。タンクにお湯を溜めるタイプなので使いすぎると水しか出なくなる。シャワーが主流の割に進化していない。不便じゃないのかな? あのでかい体をこの狭いシャワー室で少ない湯量にて洗っているとは想像しがたい。やっぱり日本のお風呂&湯沸かし器ってステキかも。 
 
 荷物を車に積み込み工藤さん達キャンパーに別れを告げ、空港へと車を走らせた。高速は早朝なのでそれ程混んではおらず、走行車線の平均時速は120〜140km/hぐらいのいい速度で流れている。しかし日本のように高速に照明設備はなく真っ暗なのだ。周りを確認するとハイビームではなくロービームでガンガン飛ばしている。こんなスピードで前が見えているのだろうか? そんな高速道路を緊張しながらハンドルを握って空港に到着。レンタカーを返却して緊張のチェックイン。カウンターはまだ混んでいなくて、特にお咎めもなくスムースにチェックイン完了。ふぅ〜〜、もう安心だ。そしていつもの小さなプロペラ機でなく、70人乗りのジェット機でインスブルックを飛び立った。 
 1時間ほどでウィーンに到着し、3時間待ってから成田に向けて再び飛び立った。機内では早々に眠気が襲ってきたが、ドリンクが配られる頃に目が覚めてしまい眠くなくなってしまった。小説読んで映画3本観てフライトも残すところ2時間ぐらいになった頃、ふと日除けを開けて外を覗いてみたら翼の先の夜空にオリオン座が見えた。これだけ何度も飛行機に乗っているが、飛行機の中から星座を眺めたのは初めてのような気がする。プラネタリウムの時間早送りみたいにオリオン座は機体後方に流れて行くと、東の地平線が次第に明るくなっていった。宇宙の中で地球が回っているのを感じるねぇ。次第に日本時間に近づいてきている。ここはおそらくロシアの東端あたりなのかな?街の灯りが見える。随分長い間外の景色に見とれていたように思う。そして朝食が済んで暫くしたら成田に到着した。 
 
写真:インスブルック空港にて。珍しくプロペラ機じゃない! 
  
 

2005. 12. 2  帰宅
 
 大橋と桐村は羽田へ移動してそれぞれの地元へ帰るので此処成田でお別れ。「またレースで会いましょう!」と握手をしてバスを見送った。そこでタディーを発見!タディーとはここ数年、工藤さんや佐々木さんのキャンプに参加している九州のアルペンライダー。今年はスイスのサースフェーで開催された佐々木さんのキャンプに参加して、数名のキャンパーと共にちょうど帰国したところだったらしい。彼はとても面白い男で奇行が多いというか、とにかく話題の多い人物なのである。彼の逸話を話し出すと長いので書かないが、マジ笑えるのである。 
 
 成田からセントレアの乗り継ぎ便でちょうどよい時間のものが無かったので、夕方の便まで9時間成田で時間を潰してから再再度飛行機に乗り込んだ。セントレアまでの飛行機はJAL便で2階があるようなでっかい機体。しかもパーソナルディスプレー付きと調子良いんだが、たかだか1時間のフライトだから映画観られないしゲームする気も起こらない。ムダなのである。まぁすぐに着くかと思って小説読んでいたが、なかなか飛び立たない。やっと動き出したかと思ったら電気系統の不調だとかで元の位置に戻ってしまった。ありゃ?最近事故の多いJALだけに少々不安を感じる。インスブルックを飛び立ってからここまで、既に24時間経過しているので少々遅れても誤差程度で問題ない。「飛び立てなくてホテルに一泊なんてのもイイかも?」って考えていたら修理が完了したらしく、無事に飛び立つことができた。出発が遅れた事に対する謝辞はあったが謝礼的なものは無く、丁寧にドリンクサービスされただけであった。う〜ん残念。ボーナスマイルぐらいくれてもいいのに。50分遅れてセントレアに到着しました。到着が遅れて他の便の到着とかち合ってしまったせいか、荷物が出てくるのも非常に時間がかかった。ちょっとイライラしてきた。 
 
 ここからは名鉄電車と地下鉄を乗り継ぎ、重い荷物を引きずってやっと我が家へ到着した。結局28時間ほどかかったのかな?あ〜〜〜疲れたぁ〜。部屋に入ると、あッという間にソファーで寝てしまいました。 
 
写真:冬本番のソルデン。また来年も此処で滑れるかな? 
  
 

2005. 12. 3  引き籠もり
 
 家族に起こされて朝食を食べ終えたが、その後なにもする気がしない。またソファーでだらぁ〜っと寝ていたら昼食。それからまたソファーでだらぁぁぁぁっと寝ていたら夕食。結局何もせずキッチリ3食たべただけの1日でした。 
 
 今回のレース中止でポイントを取る事ができなかったので、12月16日にアメリカで開催されるレースへの参戦を考えていたのだが、「エントリー手続きの期限を過ぎている」と言うことで参戦は不可能になった。それに今回の中止になったレースで1月までのワールドカップ遠征メンバー選考を兼ねていたので、これらにも出られないことが判明。つまりトリノへの可能性は完全に消えた事になる。あとは富良野で開催されるワールドカップを狙って頑張るしかないようですわ。 
 
 先述の「エントリー手続き」というのは、「海外でのあるレベル以上のFISレースには引率者を設定し、その旨を1ヶ月前までに協会へ申請しなければならない」と云うもの。この「引率者」というシステムが選手の遠征活動の妨げになっているように感じる。 
 「引率者」はレースのレジストレーションやミーティングに参加するマネージャとしての役割と、怪我などのトラブルに対応する役割として必要とされているが、正直選手個人でも兼任できる内容なのである。怪我の時は旅行保険の救援者費用で賄うことが可能である。しかし引率者を設定しなければレースには出られないルールを日本は定めているのだ。もし自分一人だけがレースに出る場合は、引率者一人分の旅費を負担しなければ参加できないのである。これは金銭的にマジでキツイ。ナショナルチーム員であれば特別に選手同士の兼任が可能であるが、一人での参加は認められないのである。ナショナルチーム員以外の選手で、引率者分の旅費が工面できなければ、参戦は不可能。若い選手などは親に頼れなければ事実上参戦は無理。これでは上を目指す選手、特に若い選手が育たないと思うのだが、SAJはどう考えているのだろう? 
 こんな私的な日記で問題提起してもどうにもならないと思うが、これホント何とかならないものだろうか。 
 
写真:スワロフスキーワールドにて。雪をかぶった「ぷっちょ」のオブジェ。 
  
 

2005. 12. 12  アメリカ遠征前日
 
 9日の午前中に二星コーチから国際電話があった。 
「今月16日にMt.Hood Meadows USAで開催されるレースに出たいか?」とおっしゃる。実はオーストリアから帰国後すぐに「出たいので参加許可もらえないか?」と二星コーチに問い合わせていたのだが、答えは「NO!」。申請書類提出期限を過ぎているからダメだといわれたのだ。それならもうしょうがないから諦めていたんだけど、「出たいか?」と聞かれれば「出たいに決まっている!」と即答するワケで、申請書類を受け付けてもらえた。しかし公開練習に間に合うためには、あと3日しかない。そこからオニのように忙しくなったのだ。 
 まずエアーチケットの手配。以前利用したツアープランナー・ケイの国友さんにムリ言って何とかおさえることができた。「国友さん有難う!」。そしてレースのエントリー、宿の確保、レンタカーの手配、もちろん師走だから仕事も片づけなければならない。久しぶりに本気で頑張った。幸運にも昨年借りたALAMOレンタカーの日本語ホームページがあったので、簡単に予約を行うことができた。 
 問題は宿。ゲレンデから近い宿を探すがなかなか条件に合うものがない。英語のホームページも完全には理解できていない。「あ〜〜〜〜もう現地で何とかするかぁ?」なんて諦めていたら、友人がいくつか宿を検索してくれたので、ダメもとでメールを打ってみた。すると出発前夜に返信があって、4人部屋で100ドル弱という部屋をおさえることができた。しかもホットタブ、ジャグジー付き。なんか調子いいねぇ〜。仕事もとりあえず何とかなったし、あとはパッキングだけだ。 
 北米方面はあまり重量規制が厳しくないので、パッキングも結構気楽だ。しかもオーストリアの荷物がほとんど片づけていなかったから、荷物集めるのも楽チンだった。あ〜〜〜疲れた・・・。 
  
写真:メルタールの宿にいた猫。名前はジプシー。毛が柔らかくて可愛かった。